意思決定支援の重視

DECISION SUPPORT

「意思決定支援」、ずいぶん耳ざわりの良い言葉です。
「あなたの仕事は何ですか?」と問われて、「わたしの仕事は意思決定支援です」なんて言えば、なにかとても上等なことをしているような雰囲気をかもし出します。

しかし、意思決定支援には「真の意思決定支援」と「見かけ上の意思決定支援」があるから気をつけないといけません。「真の意思決定支援」とは、志を高く持ち、理想と現実の狭間で常に一歩でも前へ進もうと努力し、それでもかなわぬ思いに常に申し訳なさを感じ、今置かれている状況がいつでも不十分であることを自覚している姿を指します。

「見かけ上の意思決定支援」とは、志がとぼしい上に、今まではこれでうまくやっていたのだから、これからもこの方法で良いという体験主義的な確固たる自信があり、強者(支援者)と弱者(障害者)の関係のなかで伝えられている意思をそのままその人の意思であると鵜呑みにして疑いもせず、今ある支援状況が正しいと他の人の意見を聞こうともしない姿を指します。

「ごはんにふりかけをかけて食べたい!」という意思伝達に、「ほかの人はふりかけをかけずに食べるのだから、ガマンしましょうね」と支援者が答え、それに対し「はい、わかった」と返事があったとき、この支援者は言うでしょう、「わたしは意思決定支援をしている」と。しかし、これは見かけ上の意思決定支援です。

一方、真の意思決定支援とは、「宇宙旅行がしたい!」という意思伝達に、「どうしたら宇宙旅行ができるか、一緒に考えましょう」と支援者が答え、星座やロケットの図鑑を見たり、プラネタリウムに出かけたり、実際にロケットの打ち上げを見に種子島宇宙センターまで旅行したりと、たとえ宇宙旅行がかなわずとも、その人の気持ちに寄り添い、実践を積み重ねることができる姿です。

見かけ上の意思決定支援者は、仕事が増えることが嫌いです。一方、真の意思決定支援者は、仕事が増えることを厭いません。それは、自分が関与しているその人が、自分の支援によって幸せになっていくのを見ることが、この上ない自分の幸せであることに気がついているからです。いざ行かん!真の意思決定支援の道程を!

支援現場で必要な意思決定支援

意思決定支援と支援者の姿勢とは、どういったものでしょうか。

01意思形成支援 〜すべては「相談」するところから始まる〜

人は、「相談される」という状況に身を置かなければ、こたえようとする、すなわち「自己決定しよう」と思うようにならない生物です。「何か食べたい?」と聞かれるから、思いを巡らし「ラーメンが食べたい」と答えるようになるわけです。そろそろお昼の時間だからと、ラーメンがオートマチックに出てきてしまう状況では、答えようとする気持ち(力)は育ちません。とすると、「相談する」という行為が、意思決定支援のスタートであるということが、まず確認できます。

次に、なぜ人が「相談する」という行為を発動させるかということについて考えてみましょう。それは、「相談」者が、「相談」の対象者には「相談」すれば必ずこたえを返す能力があるだろうと暗黙裡に了解しているからです。つまり、答えが返りそうもないときには、私たち支援者は「相談」しないのです。

ここで、世間の常識が邪魔をします。重い知的障害の方を目の前にして、いったいどのくらいの人が、「相談」されれば答えを返すことができる能力を持ち合わせていると考えるでしょうか。世間一般どころか、知的障害のある人と暮らす家族からも次のような言葉を聞くことがあります。

「うちの子は、何を聞いても分かりませんから…」「食べることくらいしか楽しみがないですから…」「言うことをきかないようなら何回も言って聞かせて下さい…」こうした言葉の裏には、知的障害のある人は、特に障害が重ければ重いほど「相談」に値しないという無意識の思い込みがあるのです。

つまり、どんなに重い知的障害があっても「相談」されれば答えを返す力があるのだと、世間の常識に反して信じることが、意思決定支援ということになります。
このように、意思決定支援は難しいからこそ専門的な仕事なのです。わたしたち支援者の仕事は、世間の常識を翻すことにチャレンジすることです。

02意思表出支援〜表出行動の適切な言語化〜

どんなに重い知的障害があっても、「相談」し続ければ必ず何らかの答えをくれるようになります。しかし、そのためには、絶対に必要な条件があります。それは、答え(意思表出行動)を否定しないことです。「オシッコに行こうか?」と誘っても動かない時、その行動は「相談」をしたことの結果として返してくれたこたえ(意思表出行動)ですから否定してはいけないのです。

これを否定することは、せっかく出たかたつむりの角を強く突くようなものです。このようなことが日常的に繰り返されれば、かたつむりはもう角を出さなくなってしまうでしょう。動かない時、「そうですね、行くのがイヤなのですね…それではまたあとで誘いに来ますね」、これが相談の帰結としてのやりとりです。自己決定は、決して一人でなされるものではありません。いつでもそれはコラボレーション(共同作業)です。「動かない」という意思と、それを受け止める支援者の「行くのがイヤなのだ」という反射板があって、「動かない」という意思が、自己決定として成立してくるのです。

言葉にならない意思表出行動を言語化すること、そして、そうし続ける日常が、単なる意思表出の段階にあった行動を意思形成・意思決定へ向かわせるのです。

彼らの内面世界を推測であるにしろ言語化することは、彼らがそのようなことを考えたり、感じたり、思ったりしても良いのだという安心感を提供します。「イヤなのですね」と言語化されれば、「イヤって思って良いんだ」と思い、「寂しかったのですね」と言語化されれば、「これが寂しさというやつか、この気持ち、否定しなくても良いんだ」というわけです。

人は、考えたり、感じたりすることは自由です。寂しいとか、苦しいとか、やりたくないとか、できないとか、この野郎とか、やってられるかとか、もう頑張れないとか、もう死にたいとか、たとえ心の中で思ってはいても、言語化して表出し難い感情は山ほどあります。どんなに障害が重くても、そのような心のうちを言語化されることが、「そう思っても良いんだ」というエンパワメントの階段を昇り始める第一歩になるのです。

03問われているのは支援者の意思受信(チューナー)能力

次に、言葉にならない意思表出行動を言語化していく能力について考えてみることにします。これは、支援者側の問題になります。
「オシッコに誘っても動かない」くらいのことなら、誰でもこの意思表出行動に秘められた気持ちの一つくらいは言語化できます。一番簡単で誰もが推測できる気持ちは、「今はオシッコがしたくない」です。または「オシッコがしたいのかしたくないのかが、(重い知的障害のために)分からない」です。

しかし、人の気持ちは、そんな簡単ではありません。同じ「動かない」状況であっても、その理由は様々に推測することができます。
「あなたには誘ってもらいたくない」「今は、面白いテレビを見ているから行きたくない」「今、行こうと思っていたのにうるさいなあ」、さらには「あなたはわたしのことをわかってくれないから、わたしはあなたのいうことはききたくない」という場合もあるでしょう。

まだあります。「さっき行ったばかりだよ」「眠いなあ、面倒臭いなぁ」、あるいは、熱がある、下痢をしているというような体調が悪い時には、オシッコどころではないかもしれません。「さっき違う職員に誘われてお便所に行ったばかりです」などという場合は、職員同士で全く連携が取れていない最低の支援状況です。

さらに違う場面で考えてみます。ある入所支援施設で他の家族の面会を見てパニックになった人がいます。世間の常識的な対応ではこうなります。「あなたの面会は今日ではありません。だから今日は、お母さんは来ません。」当然パニックは収まりませんから、「(騒いでいると)みんなの迷惑になるから居室で静かに待っていましょう」となるでしょう。

しかし、これではこの人の気持ちの言語化には全くなっていません。つまりこの対応では、この人の意思形成の機会を奪い、パニックという形であるにしろ、意思表出を図ったエンパワメントの芽を摘み取ったことになります。

「羨ましかったのですね」「お母さんが来ないと寂しくなっちゃいますね」「電話したくなっちゃいましたか?」「次の面会の日を決めてもらいましょうね」「本当はパニックなんか起こして大暴れしたくないんですよね」、これが彼のパニックに対する適切な言語化ではないでしょうか。

つまり、問われているのは、重い知的障害のある人の意思表出能力ではなくて、支援者側の意思受信能力なのです。意思表出行動を受け止める受信機(チューナー)の能力が問われているのです。高性能な広帯域のチューナーを持ち、さらに個々に異なる意思表出行動の背景にある意思に即座にチューニングできる能力が意思決定支援には必要とされています。

どんなに重い知的障害の方であっても、必ず相談の答えを伝えてくれています。ただそのこたえにチューニングを合わせることができる支援者が少な過ぎるのです。
ですから、サービス等利用計画作成時等に「ニーズを聞いて下さい」といわれた時、「しゃべることができない人はどうしたらいいですか」などと自分のチューナーの無能力を棚に上げて堂々と質問するような支援者が後を絶たないのです。

実は、この意思表出行動の裏に潜む本当の気持ちにチューニングできる能力は、支援者が自分の行動を注意深く自己分析する練習によって鍛え上げることができます。

例えば、先ほど挙げた他の家族の面会時のパニックのような「会いたい人に会えないときの気持ち」は、支援者自身が父親や母親、配偶者や子ども、恋人や友達に会えないときに生じる気持ちやしたくなる行動を自己分析することで想像することができます。

自分ならば「電話しようか、それともメールにしようか。少なくとも連絡が来るのを待っているのではなく自分から何らかの方法で連絡するだろうな。そうだ、面会をお願いして日程を決めてもらおう。そして、しばらく会っていなくて、次に会う約束もなくて寂しかったことを伝えて、解ってもらおう」等と考え、行動するのではないでしょうか。

04ストーリーとしての人生から読み解く意思の所在

私たち支援者が用いる双方向のコミュニケーションは、単なる「情報のやりとり」ではありません。さらにその相手が知的障害だとしたら、さらに情報のやりとりという側面は小さくなります。情報を処理する能力に障害があるのが知的障害の特性であるからです。

やりとりされるのは、情報の裏にある感情や周辺状況なのです。その感情や周辺状況のやりとりこそが共感の基礎になります。
犬を見て、「あー!」という声を発し、指さした時に伝えたいのは、「ジス イズ ア ドッグ」という情報や説明ではなく「かわいいね」あるいは反対に「おっかない」や「うちにいるよ」「飼いたいなあ」という感情や周辺状況なのです。

さらに、「かわいいね」「おっかない」「うちにいるよ」「飼いたいなあ」等を的確に共感し返答するためには、その人の暮らしを物語として知っている必要があります。
例えば、「とても大切にしていた犬、名前をシロっていうのだけれど、この間、いよいよ年老いて亡くなっちゃったの。とても悲しかったけれど、わたしは犬が大好き」ということを知っているのと知らないのとでは、返答がまるで異なるのです。その物語を知っていれば、「シロ、かわいかったですね、またお家にシロみたいな犬が来ればいいですね。今度お母さんに頼んでみましょうか」となるでしょう。

それでは、もう一つ考えてみましょう。
何回となく「ドラえもん」と伝えに来る方がいます。「ドラえもん」と同じように言い返してほしいのかと思い、その都度言い返しますが、まだ「ドラえもん」は続きます。DVDを観ても止まらないので、「ドラえもん」をみたいわけでもありません。思い返すと、イライラしているときに「ドラえもん」の伝達が多いような気がします。
そこで彼の気持ちになって「ドラえもん」の連想ゲームをしてみることにします。

・「ドラえもん」→青→四次元ポケット→猫型ロボット?
・「ドラえもん」→のび太→ジャイアン→スネ夫?
・「ドラえもん」→どこでもドア→いつも助けてくれる
→イライラしたときに言うということは「助けてくれ!」!?

そこでストーリーです。

「今日は朝から養護学校の初めての実習生が3人来ています。そのうち2人は穏やかですが、ひとりは、ずっと何かしゃべりながら、時々大声を上げています。わけのわからない人が来るだけでもイヤなのに、声を出し続けているなんてとても耐えられません。何とかならないの!?」

これでは確かに「ドラえもん!」と叫びたくなります。「そうですよね、そうですよね、朝から大変でしたよね。どうしたらいいのか相談していなくて申し訳なかったです。実習生に帰れというわけにもいかないから、今日は実習生とは離れたところで過ごせばいいですよ。どのお部屋が良いですか?」これが、意思表出支援、意思形成支援、意思決定支援ということになります。

05意思の存在の確信と応答への確信

乳児は泣くのが仕事などといわれます。泣いては母親を呼び、駆け付けた母親は必ず何らかのかかわりを持ちます。それがコミュニケーションの始まりです。次第に(とはいえ急速に)乳児には自分が何かを発すれば(発信すれば)必ず応答があるのだという確信が芽生えてきます。一回でき上がった確信は、たとえ時々応答がなかったとしても揺ぎ無く続き、母親への信頼になっていきます。応答への確信は、人を孤立させず、つながりの中での存在を保証します。

なぜ、母親は乳児の発信に対して応答し続けるのか。それは紛れもない乳児の意思の存在に対する確信があるからです。「人」はつながりの中で初めて「人間」になることができますが、そのつながりをつくるのは、意思の存在への確信と応答への確信なのです。どんなに障害が重くても意思があり、自分らしい人生を歩むことができる。彼らをつながりの中にとどめおくことができるのは、支援者が世間の常識に反して、この2つの確信を持ち続けることができるかどうかにかかっているのです。